▶大濱信泉の歴史

明治24年(1891年)10月5日、石垣島登野城に大濱信泉は誕生した。

信泉は幼少の頃より読書家なうえ、石垣島の海や野山を駆け回って遊ぶなど活発な子どもであった。
地元の大川尋常小学校、八重山高等小学校を卒業するも、知的で好奇心が旺盛な信泉は那覇市首里の沖縄県立師範学校に進学。その後も東京の早稲田大学法学部へ進み、勉学に励んだ。
当時は未開の地とされていた沖縄県よりもさらに遠い八重山出身者である信泉への偏見は強かったが、初代空手部部長を務め大学を首席で卒業するなど文武両道に邁進していく信泉は次第に周囲からの評価を得ていった。

卒業後も信泉は自己研鑚を惜しまなかった。大会社の三井物産に入社し弁護士資格を取得。その後も早稲田大学で教鞭をとり、さらに約2年間のイギリス・フランス・ドイツ留学を経験して見聞を広め、帰国後ついに早稲田大学第7代総長に就任した。

1962年には茅誠司や大河内一男らと「沖縄問題を話し合う会」を結成。1964年には沖縄問題解決促進協議会に発展させ代表委員となり沖縄の日本復帰に大きく貢献した信泉は、その功績が認められ、沖縄の日本復帰を果たした同年の1972年(昭和47年)に勲一等旭日大綬章(くんいっとうきょうじつだいじゅしょう)を受章した。

また、戦後沖縄の発展に寄与すべく「沖縄国際海洋博覧会」の会長を引き受け成功に導いた後、1976年(昭和51年)に84歳でその生涯を閉じた。

「人の価値は生まれた場所によって決まるものではない。いかに努力し自分を磨くかによって決まるものである」

当時、教育制度はおろか水道や電気などの生活基盤の整備も遅れていた八重山の地から、一途な努力で自身と沖縄の未来を切り開き、日本を代表する文化人となった信泉が残した言葉である。

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12-海洋博であいさつ
「沖縄国際海洋博覧会」の会長を引き受け、その大役を果たしました。
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大濱信泉氏のあゆみ

年代年齢主な出来事
明治24年10月5日(1891年)0歳沖縄県石垣市登野城の大濱信烈の長男として生まれる(男3人、女4人)
明治31年4月
(1898年)
6歳大川尋常小学校入学
(ナポレオン伝記などに感動)
明治43年
(1910年)
18歳沖縄県立師範学校入学(3学年修了を控えラブレター事件で退校)
大正3年4月
(1914年)
22歳早稲田大学高等予科入学(学部進学の際政治経済学部から法学部へ転部)
大正7年7月
(1918年)
26歳同大学法学部を首席で卒業
大正8年12月
(1919年)
27歳弁護士試験に合格
大正10年4月
(1921年)
29歳弁護士開業、原嘉道事務所で修業
大正11年4月
(1922年)
31歳早稲田大学法学部長寺尾元彦氏の媒酌により山内熊司・テル夫妻の長女・英子と結婚(彼は理解結婚と称している)
大正14年5月
(1925年)
33歳英、仏、独留学(主にロンドン滞在約2年は英子夫人同伴)
昭和2年11月
(1927年)
36歳早稲田大学教授就任。同人文科学研究所理事就任
昭和20年10月
(1945年)
53歳同大学同法学部長就任。同人文科学研究所理事就任
昭和21年7月
(1946年)
54歳早稲田大学理事就任
昭和24年1月
(1949年)
57歳日本学術会議会員 3期選任
第2副部長 24.1.20~26.1.19
第2部 長 29.1.20~30.1.19
昭和29年9月
(1954年)
62歳第七代早稲田大学総長・同理事長(総長3期=41.5まで)同空手部名誉部長
昭和30年1月
(1955年)
63歳35年ぶりに石垣島に帰郷、大歓迎をうける
昭和30年4月
(1955年)
63歳日本私立大学連盟会長
(36.3退任)
昭和33年11月
(1958年)
67歳全国大学教授連合会会長就任
(36.10退任)
昭和37年5月
(1952年)
70歳早稲田大学名誉教授
昭和37年5月
(1952年)
71歳藍綬褒章授章
昭和40年8月
(1965年)
73歳佐藤首相の沖縄初訪問に特別顧問として同行
昭和40年10月12日
(1965年)
73歳韓国訪問
漢陽大学で名誉法学博士号をうける
昭和40年11月
(1965年)
74歳ユニバーシアード東京大会組織委員会会長に就任
昭和46年7月
(1971年)
79歳”私の沖縄戦後史”を出版
(発行:今週の日本社)
昭和47年2月1日
(1972年)
80歳沖縄国際海洋博覧会協会会長就任。東京港区に事務局を設置(51.2.13まで)
昭和47年4月
(1972年)
80歳沖縄復帰等の功績により勲一等旭日大綬章受賞
昭和50年7月19日
(1975年)
83歳沖縄国際海洋博覧会、沖縄本部で開会式典、同協会会長として挨拶
昭和51年1月19日
(1976年)
84歳沖縄国際海洋博覧会183日間の日程を無事終了、閉会式で挨拶
昭和51年2月13日
(1976年)
84歳治療の甲斐なく悪性りんぱ腫・肺炎のため死去(15時38分)
昭和51年2月13日
(1976年)
84歳死去により勲一等旭日桐花大綬章を追贈される